太宰と春樹

統一教会絡みで、ちくま選書の「日本の右傾化」という本が話題になっている。そういえば、この本についてなにか書いた文章があったと思い出して、昔に書いた文章を見つけた。せっかくだから供養する。日本が良くなりますように、ナムナム。

 

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キーボードに置いた手が震えてる。だって、太宰と春樹、だって。超ウケるんですけど。中二病患者丸出しのタイトル。恥ずかしくて外に出せないが、こういうタイトルを思いついた時点で勝ちな気がする。太宰と春樹、その思想的類似性について。とかするよりもずっといい。これから言おうとするところと、そのタイトルがそのタイトルの他に醸し出す中二病的要素と離れている所が良い。しかし、ちゃんと書けるだろうか。

春樹、と名前の呼び捨てで書けるほど読んでないし、薫陶も受けてないしフォロワーでもない、ノルウェイの森だとか、ねじまき鳥クロニクルだとか、代表作は読んでいる。でも海辺のカフカは読んでいない。それに理由があるわけでもない。たまたま読んでいないだけである。機会があったら読むかもしれないし、しかしそのきっかけがあるようには思えない。一番面白かったのは、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド、読後の興奮を覚えているが、興奮だけ覚えていて肝心の何に感動したかということ、いや、そもそもストーリーさえあやふやである。氏のジャズに関する本は、エッセイとか翻訳とかだが、とても面白かった。いわゆるジャズ評論家のいうところはある程度共通しているが、それとは全く違っていて、それでいてその面白さや知識の幅でも引けを取ることのない、やはり大作家となると目の付け所が違って、耳の感覚が違って、筆の運びも違うとひとしきり感心した覚えがある。ここまで書いてやはりファンではないことを自覚する。そんな自分が春樹と呼び捨てするのは、いや、だからこそそうすべきなのかもしれない。ファンならそんな事はできないはずだから、つまりそう書けばむしろリスペクトしていないことが表明できるのではないかということでもある。前置きが長い。
 世界の終わりの前に、覚えてないハードボイルドよりも印象に残っている文章がある。
卵と壁というスピーチである。スピーチである。文章でなかった。そのスピーチは文章になってネットにも上がっている。

https://murakami-haruki-times.com/jerusalemprize/

どうやら原文は英語らしい。エルサレム賞受賞した際のスピーチであることは知っていたが、英語でしたものとは思わなかった。ネット上で読んだわけではなく、新聞で読んだと記憶している。それが翻訳であるものだとは今知った。だからネット上の翻訳の文章と、新聞で読んだ翻訳された文章は違うかもしれない。

ときに、日本は今右傾化していると言われている。ネットの、その顕名を剥いだところを覗いてみると、ネトウヨだのパヨクだのと罵り合っている様子を容易に見ることができる。(ところでパヨクという言葉は割合最近に知って意味を理解するまでしばらく要したわけだけど、言葉でいうとウヨクとサヨクアイデンティティーはウ、の部分とサ、の部分にあるのに、なぜその部分を変えてしまうのか。サヨクの別称がパヨクなんてわかりにくいじゃないか。サヨプぐらいにしてもらわないと言葉が失われていったあとにその言葉に出会っても推測しにくい。その点ではネトウヨという呼称は申し分ない。世のネトウヨ氏には猛省を求める)。特に現政権を批判するといわゆる普通の日本人から左巻きのラベルが飛んできて罵倒される。ネット上でのそうした傾向に、言論上で今の日本は右傾化しているというまとめがされているようである。本当にそうなのか、いや、そもそも右傾化しているとはどういうことなのか、当たり前に右や左や旦那様は言うけれど、右とはなんのことで、左とはなんのことか。右の一番右は国粋主義で左の一番左はマルクス主義であるというぼんやりとした理解は間違っているのかもしれない。間違っているかはともかくとして、違った意味でみんな使っているのかもしれない、いや、使っている当事者同士がお互い違った意味で使用して罵倒して不毛なゲリラ戦を展開しているのかもしれない。だから、辞書的な意味を調べても意味はない。言葉は成長していくものでそれには非はない。しかしある程度言葉の指すところを知っておかないとよろしくないのも事実。実のところ興味も薄いのだけど先日発売されてネットでもおすすめされていたので、ちくま選書の「日本の右傾化」という本を読んでみた。「日本スゴイディストピア」の早川タダノリさんも書いているし、ヘンな本ではないだろうと思ったからである。
 で、その内容には触れるつもりはない。色々書き留めておきたいところもあるのだけど、その内容に触れるつもりはない。無いよう。しかしまず自分が知りたかった、右傾化とは何か、右ととは何か、ということろで、まえがきでいきなりその定義が避けられていたのは肩透かしだった。右傾化が何かということにここでは触れないと書いてあって思わず笑ってしまった。徹底検証と謳っておきながら検証すべき右傾化とは何かが言及されていないのはどういうことか。これだからパヨクは。読者の想像に任せるって、妄想するぞ。いい加減もやもやしている中で、別の本を読んでいるときに、ある記述が目に止まった。松尾匡「自由のジレンマを解く」。著者はマルクス経済学者でつまりバリバリのサウスポー。左投げ左打ち守備はレフトなお方。そのお方が書いているところでは、と、本をパラパラ探してみたが見つからない。ネットで御本人がわかりやすく書いていたので、そちらを転載しておこう。

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/yougo_uyosayo.html

 『世界を縦に切って「ウチ」と「ソト」に分けて、その間に本質的な対抗関係を見て、「ウチ」に味方するのが右翼である。
 それに対して、世界を横に切って「上」と「下」に分けて、その間に本質的な対抗関係を見て、「下」に味方するのが左翼である。
 私見では、これが本来の右翼と左翼の定義であり、これ以外の定義はあり得ない。』

あっ、と思った。そうだったのか、と思った。そして、これは間違っている、と思った。
いや、そうでしょう。私たちは、私は、そして他の人達が使っていると私が認識している範囲で、このように右翼と左翼という言葉を使っている例を見たことがない。だから間違っていると直感した。にも関わらず、日本は今右傾化していると言った時の右傾化とは、まさにこの定義のことではないかという直感をもまた持ってしまった。つまり、日本人は、世界を上と下に分けて考えるのではなく、ウチとソトに分けて考えるようになってきているのではないか、ということである。「分かる」ということは「分ける」ということである、なんてよく言われる。実際、わからないことは不安だから、なんとかわかろうとするのが人間の本性のような気がする。だとすると、結局、私たちは常に世界を分けようとしているのであって、そしてどのように分けようとしているのか、ということが実に重要になってくる

ある著名な漫画家が、右寄りな言説で知られるある著名な医者の妻となってから、右傾化したと言われるようになった。以前は国など強者に対する反抗的な態度とか、弱者に対する優しい眼差しとかから見て、なるほどそんなものかと思っていたのだけど、いや実は右傾「化」したわけではなかったと思い直した。強者に対する反抗も自分が弱者であったから、つまり弱者がウチで強者がソトという図式で、弱者に対する優しい眼差しは自分が、自分の生い立ちが底辺にあったことによるもので、これまでの彼女の著作の中の表現は、一貫して、徹頭徹尾、自分とその内側に位置するものと、外の世界との境に線を引くものであって、今彼女が右のようにみえるのは自らならびにその配偶者が上の世界にいるにすぎないのではないか、と考えるようになった。変わったのは彼女そのものであって彼女の世界の見方ではなかったのである。

少し脱線したが、そこまで考えて、だが、なぜなのか、という疑問が自然と出てくる。日本人は、なぜ世界を上と下に分けて考えるのではなく、ウチとソトと分けて考えるようになったのか。その問いの中にこそ、まさにそうなってしまったことに原因があるのではないか、と思い至った。。。意味がわからないね。要するに、右傾化とは下流化のことではなかったかということである。更に意味がわからないかも。そこで、抽象的な話の前に事実を書いておく。この長らくの間、バブルが弾けて、日本は没落しつつある。経済指標GDP一つとっても諸外国との対比で下落の一途をたどり、中国に抜かれて久しく、一人当たりGDPでも皆さん大好き韓国に追いつかれそうになっている。勝ち組と負け組という言葉は定着したが実際は勝ち組なんてのはごく僅かで、ほとんど負け組に組み入れられるということが明らかになり経済格差は限りなく広がってきている。日本の「上」と「下」は中間がなく、下が肥大する形で拡大してきているのである。では、ならばこそ、私たちは世界を上と下で分けて考えるようになるのではないか、わたしたちの殆どが下に組み入れられて弱い立場に置かれているのだから。このように筆者が言うのは、事実と理論が乖離しているのでないか、と思われるだろう。しかし、反論、を試みる。自分、はどうだろうか、と。自分とは筆者のことであり読者のことである。下に組み入れられるということを、仮に、失業した、病気になった、といった人生の苦しみに遭遇したと考えてみる。自分は世界をどのように見るのだろうか。誰に助けを求めるだろうか。抽象的に「弱くなる」とはどういうことか。失業にも病気にも公的な支援が存在する。しかしわたしたちが頼りたいと思うのはそうした公的な支援だろうか。むしろそうではなく家族や友人など身の回りの人ではないだろうか。苦しいときに助けてくれるのが本当の友人という言葉が説得力を持っているのは、弱くなる時には友人に頼りたくなるという願望の裏返しでもある。(この話に説得力がないのは、まだ確信を持っているわけではないという裏返しなのだが、)想像に訴えて定式化すると、人間というのは弱くなれば自分の身の回りの人たちを大事にして頼りにする、言い換えれば、辛いとき、苦しいとき、弱くなるに連れて、世界は強いものと弱いものではなく、味方と敵、仲間とそれ以外、内と外に分けて世界を見るようになってしまうものであるということである。東日本大震災のあと「絆」という言葉が世間で流行した。良い意味として流行した。わたしたちは大きな災害にあったとき、弱い立場に置かれたとき、家族の絆、仲間の絆、地域の絆、国民の絆で結ばれたいという願望を持っている。弱い立場であるということがそれを可能にするわけではなく、弱い立場になるということがそれを可能にする。ベクトルが重要である。これが、右傾化とは下流化のことと言ったことの意味である。

あるとき、右寄りと言われる作家が村上春樹の小説に噛みついた。さらに自分の小説の中で村上春樹を模した人物を登場させそれをやゆするということろまでやっているそうだ。村上春樹の政治的スタンスはよくわからない。政治的なものから距離を取ってきたなかで、サリン事件を扱った「アンダーグラウンド」でアンガージュマンに舵を切ったということを何処かで読んだ気がする。気のせいかもしれない。しかし、本人の新潮社、もとい慎重さとはうらはらに、右寄りの人間からの批判が多く見受けられる。一方でリベラル側から自分たちの側であるという主張も聞かれないように思われる。やれやれ、これは一体どういうことなんだ。

そこで、エルサレム賞受賞のスピーチに戻る。卵の側に立つとはどういうことか。ここで、村上春樹は世界を分けている。壁と卵に分けている。この比喩の中には政治的なメッセージはないとのことである。つまりその比喩は定義された右翼と左翼ということではない。そうではなくて、世界を内と外で区切るか上と下で割るかといったそういう(間違った)意味での右と左を意味しているのではないか。壁は強く、硬い。卵は弱く、脆い。この2つは「上」と「下」と照応するように感じる。そしてその2つを対比させて卵の側に立つ、と宣言しているのである。
ウチとソトでなく上と下。それは、氏の父の、ここで最も印象的に綴られている言葉からも明らかである。
「父は、敵も味方も関係ない、亡くなった全ての人のために祈っているのだ、と言いました」
他者の口から語らせることによって感傷的なところを抑えるという手口は鮮やかだ。そしてそれが自分に受容したと書くことによって、それが本当のことだと思わせるのにも文学上の巧まざるテクニックを感じさせる。しかし文学上の技巧にもまして、その内容に本質があることは言うまでもない。それは正義の問題、いや、正義の問題の不在のことであるから。「善と悪を判断することは小説家には最も大事な役割の一つ」としながら、何が正義かの判断は保留されている。そのうえで、「卵がどんな間違っていようとも」、つまり正義が卵にはなかったとしても、卵が善ではないとしても、「私の立ち位置は常に卵の側にあ」ると宣言しているのである。それは、世界を上と下とに分けるという意味での左翼性を感じさせるうえに、狂信的右翼が無答責に自己の集団のそばに立つということと対比して、仮に不正義でも卵とともにあることを公にしたのである。
(もっと深い意味とは何かはわからない。それが「システム」という言葉の中にあるのだとして、あるいはマルクス的な、人の手によって作り出されたものからの「疎外」の問題かもしれない)

そろそろ疲れた。一気で呵成に書き進めてきたけれどようよう疲れた。でもまあもう少し書いてみる。

歴史認識ということが、右翼と左翼を分けると言われて久しいが、ある時春樹氏が中国と韓国を念頭に置いて、歴史認識の問題で相手がもういいでしょうと言うまで謝るべき、といったことに対して、先の右寄りのスタンスで有名な作家先生が批判をした。そのことに関して、正義の観点から言うことは、事の難易は別にしてあまり意味を成さない。それよりもこれまでに述べてきたことから考えられなければならない。村上氏の発言(インタビューらしい)は、卵に向けての謝罪を意味している。相手国が、という表現があるにも関わらずこれまで言ってきたことからも明らかである。その眼差しはそれぞれ中国や韓国に住む人々一人ひとりに向けられている。一方で批判する側は日本とそれ以外の国(ここでは中韓)を内と外に分けて、自己を日本に仮託して発言している。具体的に思い浮かべるのは、習近平共産党指導部、あるいはパク・クネであろう。ウチとソトという概念は極めて大きく拡張しうる。その限界は国家にあるように思われる。右派右寄りということが国家主義に近いと言われるのはその由縁である。自己から肥大して、国家に至る。そして、その重要な分岐点は、「家族」である。

 長い。何を書いてきたか忘れつつある。そう、太宰である。「家庭の幸福」という掌編がある。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/282_45418.html

メロスは激怒した。ではなく、とうとう私も逆上した、である。怒りの矛先は官僚である。しかしその怒りは陰弁慶となり、やがては小役人となった妄想の中の津島修治となった(ここで自分の戸籍名を提供するという弁解をただの弁解として論に載せないのはあまりに文学がわかっていない。わかっていないけど長いので措くことにする)。そしてその小役人修治は、
 家庭の幸福。家庭の平和。
 人生の最高の栄冠。
のために、人と殺すことになる。自分自身知らない間に。
そして、結論。
「曰く、家庭の幸福は諸悪の本。」

太宰の、太宰たる所以はここにある(いや僕はそんなところが太宰らしいと言いたいだけである)。言いたいことは、実にはっきりと言っている。しかしそれはユーモアによって隠されてたり、照れの中にあったり、本当はそこまで本気で言っているんじゃないだよという態度をにじませたりする。(ここは村上春樹とは対象的かもしれない。言いたいことは文章の中に隠して、それは読者一人ひとりが感じ取るものだということを示唆する。) それでいて、その言いたい一言は、実に人に突き刺さりやすい。

大抵の人は、自分ひとりの欲望で他人を傷つけることを良しとしない。自己中心的だとか自分勝手とかいう非難には耐えられない。しかし、同時に驚くほど愛する人のために勝手な行動を取るのを躊躇しないものである。自己中心的の代わりに家庭中心的とか、自分勝手の代わりに家族勝手という言葉はないし、それは非難に値しないものとして捉えている。ベタな二時間ドラマでは殺人の動機が愛する人や愛する子供を守るためで、それでも殺人は良くないというふうなオチが付くことがある。それほど家族のためであれば、平和な家庭を守るためであれば、周りを傷つけてもいい、ときによっては自分を犠牲にしていいという心理がわたしたちに染み付いている。だからこそ、刺さるのである。まさか、家庭の幸福のためにしたことが非難されるなんて、と思うのである。本当は、太宰自身「諸悪の本」、までは思っていなかっただろう。人を愛したり家族を愛したりすることが人間の幸福につながっていることを理解していたに違いない。だからこそそこにエゴが生じて人を傷つけてしまうということに、人々があまりに無自覚なことを強い言葉で、そしてユーモアで誇張して、書き記したのである。私にはそのように思われる。

よく知られているように、太宰治は戦前に左翼活動をしていた(そして離脱した)。これまで見てきたように、ウチとソトに分けるという世界の見方は、国家を上限として家族に帰る。日本を守ると称して外国との関係を測るのは、家族を守ると称して社会を測るのと相似形をなしている。太宰が左翼活動と手を切ったのは不勉強にして理由は知らない。左翼活動の本質は階級闘争である。階級とはまさに世界を上下に分割することである。しかしながら闘争には正義が必要で、微笑ではなく力が必要である。力とは「仲間」のちからである。仲間には絆があり必然的に外に働きかけるものである。内の力を外に及ぼすことである。太宰は、飛躍していることは十分承知しているが、そこにエゴを見出し嫌気が差したのかもしれない。

理屈をこねくり回した結果、太宰と春樹について何かしら言った気になっている。世界を、ウチとソトで見るのではなく、上と下、弱者と強者として捉えるという点である。そして、自己を弱者の側に立つと宣言する点である。
待てよ。太宰については卵の側なんて言っていなかったじゃないか。小役人のエゴについて言っただけだった。いい加減疲れてきてもう書く力がない。だから、最後は別の掌編のリンクを張って終わりにしたい。「畜犬談」というタイトルである。ここまで長々と書いてきたのは、実はこの小説を読んでほしいがためである。正直、この小説を読んで、これまでの長い話を思いついたのである。あれ、春樹と太宰って似てるんじゃね。と思いついたのがきっかけである。そして、「家庭の幸福」と同じようにこの小説の最後もとっても刺さるのである。これまでの文章は、その針を研いでいただけなのかもしれない。最後の一行で、私たちは涙すると書いた文庫本の帯を見たことあるかい? 最後2ページでどんでん返しが待っている、とか。そんな大仰なことではないかもしれない。でも、この小説の最後には、照れながら、でもこれだけは言っておきたいんだという太宰その人の姿が見て取れたのである。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/246_34649.html