なんで選挙行くの?

久しぶりに長い文章をかいてみた。

かなり前に書かれた誰だかわからない人の日記が流れてきたから、それに対するものである。書きながら文章の書き方をすっかり忘れてしまっていることに気づいた。何かしら役に立つとは思えないけど、言いたいことを伝える技術というのは失われがちなので、最低限保てるようにしないと。

 

https://anond.hatelabo.jp/20190712230135

 

逆に? 逆って何? 何が逆なのか、何に対して逆なのか。

接続詞なのに前段の文章がないということは、その前に別の言葉が省略されていると考える必要がある。

 

「(選挙に行けと言われるが、)逆になんで選挙行くの?」

 

この辺りが妥当だろう。でも言われるとはなんだろう? いったい誰が言っているのか? 略しているということは、それは特定の誰かを指しているわけではなく、一般的に他人が言ってるけれど、オレはそうは思わないぜ。と世間の常識に背を向ける格好良さをアピールしているのか。

 

しかし、そんな格好良さ自慢の破格の疑問に対してはあえて普通の答えで返そう。

 

社会を変えるためである。

 

逆になぜその答えにたどり着かないの?

 

選挙に行って、政治家が選ばれて、政策が決まり、社会に影響を与えるのだから、投票するのは社会を変えるためである。

 

> お前個人的が行っても行かなくても結果は変わらんぞ? (ママ)

 

なぜ? 自分も1票あるのだから、1票分は結果は変わるし、投票することで社会における「1票分」の役割を果たすことができる。

 

そこから新たな疑問が出てくる。1票分とはどれほどか?

 

> お前の生活1ミリも変わらんよ?

 

ここで初めていいことを言った。一票分とは、その通りの分である。1ミリも変わらない分である。選挙の目的が社会を変えることだとすれば、自分の生活が1ミリも変わないのは当然である。なぜなら、社会の中の自分の生活の価値というのは、社会が1万人で構成されていれば1万分の1であり、100万人で構成されていれば100万分の1だからである。社会に自分は含まれているが、自分にとって社会はあまりにも大きく、あまりに大きすぎるので、社会というのはおおよそ自分以外で構成されているとみなしてもよいほどだ。つまり、いってみれば社会とは「他人」によって成り立っているものなのである。

 

そのうえで、改めて最初の問いに答えよう。なぜ選挙に行くのか? 社会を変えるためである。では、「何のため」に選挙に行くのか。それは社会を構成する自分以外の他人のために行くのである。

 

社会とは、100万分の99万9千9百9十9の他人でできている以上、社会を変える選挙はすべての有権者にとって、それぞれの有権者以外、つまりに他人のために行われているのである。「逆に~」の人はきっとそのことがわかっていない。

 

続く文章を読めばそれが一目で瞭然である。

 

> そんな熱心に政治ウォッチしてる暇あったら、仕事のスキル磨きなよ

 

つまり、他人のことをするなら自分のことをしろよ、と主張しているわけである。

「お前の生活」を変えたければ、「仕事のスキル(=自分の社会における価値)」を高めろよ、と主張しているわけである。

そのこと自体は理にかなっている。しかしだから間違っている。

最初の質問のまえに、「選挙に行けと言われるが」という言葉を補ったように、これまでの話を加えて、「逆になんで選挙行くの?」 の完成版をつくろう。

 

「(選挙に行けと言われるけど、他人のことを考える暇があれば自分のことを考えればいいのに)逆に、なんで選挙に行くの?」

 

なんてジコチュー野郎だ。

 

すべての行動を、自分の利害を中心にして判断することをジコチューという。選挙にも自分の生活が変わらないから行かないと言う。

「投票に行くこと」=「他人のためにすること」という等号が成り立つならば、「投票に行かないこと」=「他人のために行動しないこと」ということもまた成り立つ。だったらそれはジコチューじゃないか。

 

ジコチュー野郎が多数を占める社会はジコチュー社会である。日本は投票率が低いと問題になっている。しかし、理由は指摘されない。だから言っておく。ジコチュー社会だからである。

 

ジコチュー社会の有権者は自分の利益にならない限り投票しない。逆に言えば、投票している者は利害関係者である。組織票とは言葉通り組織の利害に関連している。投票することによって利害がある組織の票のことである。

 

あるとき、「選挙に行かない男とは付き合うな」と、Twitterで流れてきた。多くの「いいね」を集めて、いろんな反応があった。ところがその反響に「ではなぜか?」という問いをしたものはなく、こうであると答えた人もいなかった。

 

https://twitter.com/waiteatpaint/status/1279631596794994688

 

ここで答えておきたい。なぜか? ジコチュー野郎だからである。自分のことを考えて、あなたのことを考えてくれない人間だからである。男はあなたに言うだろう、男はあなたにするだろう。その時に、あなたは考えなければならない。男が言うことすることは、あなたのために言うことなのか? あなたのためにすることなのか? ジコチューの男がすることは(一見のところあなたのためにするかのように見えて、)すべて自分のためにすることであり、それがジコチュー野郎のゆえんである。

選挙に行くということは、他人のことを考えて他人のためにする行為である。そのことをわかっていれば、他人のためにする投票というそんな小さなこともできない人間が、あなたのために何かをしてくれることが望み薄であることもわかるだろう。あなたのためにしてくれると思ったとしても、少し立ち止まって考えよう。それは、実のところ、自分の利益になるかどうかでそれをしているのではないか、と。

 

だから、そんな男とは付き合うな。

 

日本はジコチュー社会である。

そうした社会だからこそ、各党が掲げる政策にいささか辟易するところもある。自民党だろうが共産党だろうが同じである。自分たちの政策が「あなたに」利益がありますよ、ということを盛んに訴える。公約にも、個人の利己心に働きかけようとする主張が多い。イラっとしませんか?

「あなたを幸せにしたい」というれいわのスローガンなんてその典型である。別に俺を幸せにしてくれなくていいんだよ、と言いたくなる。困っているあの人を幸せにしてくれ、自分はその人の力になるにはあまりにも弱い。だからその人のために何とかしてくれ、と言いたくなる。

 

選挙に行っても何も変わらない、そんなことするくらいなら自分の仕事のスキルアップに時間を使え、ということは自助にその価値を認めようとする社会である。突き詰めれば自己責任の社会である。投票率の低い社会はジコチューの社会で、ジコチューの社会は自己責任を強調する社会である。

 

話が大きくなりすぎた。元に戻す。

 

A党が障碍者の予算を0にしますという公約を掲げて、B党は障碍者の予算を倍にしますという公約を掲げているとする。A党が政権をとろうがB党が政権を取ろうが、健常者のあなたの生活は1ミリも変わらない。だから、あなたは選挙に行く必要はないのだろうか。あなたの生活が変わらないのになんで選挙にいくの、という価値観を持つ人は選挙に行かないだろう。

 

しかし、障碍者にとってはどうか。A党が政権を取るかB党が政権を取るかは生死を分ける問題である。障碍者にとっては自分の1票だけでなく、あなたの1票、ほかの人の1票こそが貴重なのである。他者に生殺与奪の権を握られている人間にとっては、言い方に問題があるかもしれないが、他人の慈悲にすがるしかないのである。

 

選挙に行くとは他人のために行くこと。もちろん障碍者は一つの例である。誰のために投票すべきなのかは、一人ひとりが考える必要がある。逆に言えば、選挙によってあなたの生活が1ミリも変わらないからこそ、あなたは他人のことを考えるべきである。他人にとってのあなたの1票はあなたにとってのあなたの1票よりも価値があるのだから。

 

選挙に行っても行かなくても自分の生活が変わらない人間は幸福な人間である。そしてすべて幸福な人間は、他人によって支えられている。自分だけの幸福なんてものは存在しない。幸せな人は考えてみよう。あなたの幸せは、何によってできてるのかと。そして、その何かは誰が作った「何か」なのだろうかと。それが唯一自分と答えれれる人は少ないだろう。孤独は幸福の対義語なのだから。ほとんどすべての幸せは、幸せと感じる人以外の人々、幸せな人にとっては他人によってつくられたもののはずである。だから、幸せな人は、他人のことを考えないといけない。自分を幸せにしてくれる他者のことに思いを馳せる義務がある。

 

選挙に行っても何も変わらないよ、と思う人こそあなたの清き一票はあなたの幸せを作る人のために投じられるべきである。

 

結論を繰り返す。長い文章も結論だけで必要充分である。

 

「何のため」に選挙に行くのか?

「他人のため」に選挙に行くのである。